日本のころろ文化についてお話を致しております「日本に息づく心配り〜Le point de vue de Les Misera〜」の浅海です。
先日、かつてお仕事をご一緒させていただき知り合った元教授秘書のSさんと、数年ぶりにお目にかかり、お茶をして参りました。
Sさんは数年前よりサウジアラビアにお住まい。
久々の再会に加え、サウジアラビアの生のお話を伺える機会なんてそうそう持てるものではありませんので、私は大興奮(*´꒳`*)
サウジアラビアの気候やお店のお話、服装、女性に関するお話し、そしてもちろん、お食事に関するお話も伺え、とても新鮮でした。
そしてあっという間に時は過ぎ、話し続けること数時間...(笑)
本当にあっという間の楽しい時間でした
Sさんはサウジアラビア在住の日本人を対象に、お茶のお稽古などもなさっているのですが、講師同士理解し合ったポイントの一つに、我々としては必要不可欠なお道具や所作であっても、その存在意義を理解してもらうのが大変な場合があるということがありました。
例えば、お茶でいうお扇子。
お箸使いで言えば、三手や両手で扱うことだったり、美しくお箸を持ち扱うこと。
風呂敷で言えば、包む順番(所作)や柄。
それぞれには精神があり、意味があります。
もちろん、それらについてきちんと説明すればご理解をいただけるのですが、一方で“面倒”と思われてしまうことも・・・そして敬遠されていくという悪循環...
何故古くから伝わる所作を理解していただくことがこんなにも大変な時代になってしまったのだろう!?
家に帰ってもこのことが頭を巡り...こういう結論に至りました。
その一番の要因は、形(カタ)の重要性における知識・体験の欠如にあるのではないかと。
例えば、どんなスポーツにも形があります。
形が出来ているからこそ、能力を発揮できる。
形という基本がしっかり身に付いているからこそ、応用が利くのです。
だから、何かを始める時には、みっちりと形を教え込まれますし、能力の向上に行き詰まれば、一度基本である形に立ち返るのです。
そして、共通の認識を持てる形で表現するからこそ、心は相手に伝わるのです。
私の感覚では伝統・所作における形もこれと同じことなのですが、こと、伝統・所作となると、あっという間にこのことは忘れ去られてしまいます。
例えばほんの数十年前まではお箸は必ず右手で持つものでした。
左利きの子供は、お箸と筆だけは右手で扱うようにと、どの家庭でも厳しく躾られたものです。
しかし昨今、幼稚園や小学校で左利きの子に右で扱うようにと指導することは、個性の排除や強制として非難されます。
ただ、世界中どの国の食事をとっても、食卓は右利き用に配膳されるのです。
ある国では、左手は不浄の手とされますし、隣との間隔が近い席では、左利きの人は席次に気を使ったり、ぶつからないように常に注意をしながら食事をしなければならないのです。
私は左利きを排除する考えは全くありません。
私もそれはひとつの個性と考えますし、左利き故に右利きの人とは異なった脳の発達や思考力が育つと思うからです。
ただ、そもそも形(カタ)と個性とは、比較する対象にないものなのです。
だって、どちらも不可欠なものなんですもの。
形ばかりで個性がなければ、ロボットと同じで人である意義すら無くなってしまいますし、逆に個性ばかりで形が身に付いていなければ、足が地についていないような薄っぺらな自己表現しかできません。
形は土台、共通言語・知識のようなものであり、個性は形を踏まえてできる自己表現のひとつなのです。
そして、形には必ずと言ってよい程、他を思いやる心や尊重する心が表現されています。
私たちは一人で生きているわけではありません。
多くのご縁に出会い、多くの人と接し、多くの人と時を共にし、和を築き、日々を送るのです。
それにはやはり、形(カタ)を身につけておくことは、心も伝え(表現し)易くなりますし、無駄に角を立てたり不快感を与えてしまうこともなく、生き易さに通じるのではないでしょうか。
生き易い人々で溢れた世界...
その世の中はきっと平穏に違いありません